聴覚障害者と聴覚障害者を取り巻く方々を対象とする心理カウンセラーをはじめ、心的支援のスペシャリストを中心としたメンバーたちで綴るブログです。1週間に1回程度の更新となりますが、どうぞ、末永くお読み頂ければ幸いです。
2011年7月31日日曜日
コラムVol.165 【食べるから生きていける】
先日、小学校での食育に関しての取り組みをテレビで見ました。
実際に、魚屋さんがクラスに来て、魚の説明をします。
そして、目の前で魚をさばいて料理し、お昼に給食で食べます。
すると、魚が苦手な子も「美味しい」と言って食べたりするそうです。
また、実際に畑で野菜を育てたり、田んぼで稲を育てたりして、
成長したら収穫して食べる、という取り組みも行われているようです。
実際に見たり体験したりする事で、
作っている人の苦労を知ったり、
作る過程を学んだり、と
子ども達が得るものは、きっと沢山あるのでしょう。
しかし、物が豊かなこの国で、食べるものがあることの“ありがたみ”は
果たして、どこまで伝わっているのでしょうか。
食べるものを“いただく”事で、生きていける、
そういう命の大切さについて考える事が出来れば、
食べることに関して、もっと違う意識が持てるようになり、
“もったいない”と思ったり、
大事に食べる様になるのではないでしょうか。
ただ、栄養の為に必要だから、と説明したところで、
食べる事や、食べ物の大切さは、
子ども達の心には響かないと思います。
ここに、先生が葛藤しながらも取り組んだ例を紹介します。
1990年、大阪の豊能町立東能勢小学校の6年生のクラスで、
当時新任だった黒田恭史さんが
“学校で豚を育て、大きくなったら食べよう”と提案し、
ブタにPちゃん、と名前をつけて、実際に皆で育て始めます。
“今の授業は、答えのある授業ばかりしている。
筋書きにない授業で、食とは何かを考えさせたい”
しかし、この話が報道されると「残酷だ。」と批判が殺到し、賛否両論を呼びます。
この話は2008年に“ブタがいた教室”として映画化されました。
映画に出演した子ども達も、実際に3ヶ月間、豚を育てました。
最後にPちゃんの処遇を決めるクラスでの話し合いのシーン。
台本は無く、子ども達一人一人が考えた意見を、自由に言うようにしたそうです。
食べる派、食べない派に二分し、議論は白熱します。
子ども達は涙を浮かべながら、必死にブタをどうするか考えます。
映画のワンシーンでも、子ども達が命と真剣に向き合っている、
という臨場感がとても伝わってきます。
“Pちゃんを可愛がって育ててきたのだから、殺すのはかわいそう、
どうしても食べる事は出来ない、”という意見。
“かわいそうだけど、卒業と考えたらどうか。
ブタを出荷している人も可愛がって育てているのに、
私達が食べるために出荷しなきゃならないのは、ツライのでは?”という意見。
黒田先生は結論をどうするか悩みます。
そして…、
先生は、Pちゃんを食肉工場に送る事に決めました。
“食べる為に育てる”という原点に戻って、結論を下したそうです。
その結論を下した後も、それで本当に良かったのか、
先生はとても悩んだそうです。
卒業した生徒と成人式で再会した時に、
「あの授業のおかげで、自分は命の大切さを学ぶ事が出来た。」と生徒から言われたそうです。
果たして、この授業が良かったのか、悪かったのか、
…正解はありません。
この学校は山の中にあり、自然に囲まれた環境で育った子ども達です。
この方法で、都会の学校の子ども達にも
同じように感じさせる事が出来るか、というと、
また違ってくるのかもしれません。
ただ、私達大人も子どもも関係なく、
食べるために殺されている命があること、
命をいただいているのだから、
ありがたいと感じて生きなくてはならないこと、
などなど、もっと感じて食べなくてはいけないなぁ、と考えさせられました。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか?
夏になり、暑くなると食欲も無くなりがちですし、
悩み事があると、食べられなかったりしますが、
食べ物があることのありがたさ、
命をいただいていることのありがたさを噛み締めながら、
しっかり食べて、
心にも体にも栄養を。
生きる為の力をつけていきたいです。
心と体は
つながっていますものね。
†Blue Luna†
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