これは、あるドラマの中で印象に残ったセリフです。
正直に生きないと、いつまでも自分に問い詰めることになる。
「もし、あのとき」
巷では、人は、後悔だらけの人生を過ごすといわれています。
もちろん、幸せだらけの人生を過ごすこともありますが、
なぜか、記憶に強烈に残るのは
幸せより悔いの方だったりしませんか。
人は、いくつもある選択肢から自分にとって最適な方法をとったつもりでも、
納得いかない結果、自分に嘘をついたままや犠牲などが生じると、
必ず、葛藤が起こります。
それが、
「もし、あのとき・・・」
そう、他の選択をしたときの可能性を確かめたくなることがあるのではないでしょうか。
どんな過程がありましても、自分が自分らしく生きるためには、
きちんと自問自答しながら正直に生きることが最短の距離ではないでしょうか。
ただし、人生に不正解はありません。
たとえ、選んだ道が誤っていたとしても、
その道を選ぶまでの過程を、自分にとっての最良な方法で決定した上、それらを受け入れたからこそ、
その道があるのだと思います。
それぞれの道には必ず、自分の好ましい方向へ導ける見えないレールがあります。
時には、進むべき道または進んだ道の中には、何かを責めたり何かを犠牲にしたり
することもあるかもしれません。
あなたは、
あのときのことを今でも、自分に問い詰めてしまっていることはありませんか。
もちろん、ある方やない方、わからない方など、さまざまな方がいらっしゃると思います。
ですから、「もし、あのとき」をなるべく駆使しないよう、
そうならないよう、今を大事にして、自分が本当に求めていることは何なのか、
飾りではない、正直なありのままの自分でいられるよう、
こころの準備や整理をし始めてみてはいかがでしょうか。
その今でさえも、1秒後には過去になってしまいますから。
//mivi//
聴覚障害者と聴覚障害者を取り巻く方々を対象とする心理カウンセラーをはじめ、心的支援のスペシャリストを中心としたメンバーたちで綴るブログです。1週間に1回程度の更新となりますが、どうぞ、末永くお読み頂ければ幸いです。
2011年9月26日月曜日
2011年9月22日木曜日
コラムVol.170 【古希のお祝い】
なかなか取れていなかった夏季休暇をようやく
先週取得できると思っていたら、業務の都合で
延期となり、やっと取れ始めたのが幸い(?)
にも先週金曜からでした。つまり、連休と重なって
取得することができているので、今も長い休暇中です。
(とはいえ、自宅にいながら仕事はしていますが…)
仕事のことはいいとして、先週末、父の古希のお祝いを
しました。恥ずかしながら古希(こき)ということを知らなかった
私ですが、一言でいうと「70歳を祝う」ということですね。
3兄弟とその家族皆が(滅多に会えない中)ようやく
久しぶりに会えたわけですが、やっぱり家族っていいです
よね。特にコミュニケーションをとらなくても何となく
通じ合っているところがいいです。物事を論理的に伝える
だとか、研修で学んで業務でも活かすよう色々と実行しては
いますが、あのように神経を使って会話する必要が家族とは
一切必要がありません。そんな家族のようなコミュニケーションが
とれるっていいなぁとあらためて感じました。
皆さんはそのようなコミュニケーションがとれていますか?
何か初心に戻ったというか、原点に戻ったような気がちょっとして、
いつも無理していた自分を改めて見直すことができた感じが
しました。
「家族愛」って、いいですよねー。
久しく帰省されていない方も、時間をとってちょっと顔を
だしてみませんか?もしくは、電話で「元気?」の一言だけでも
いいと思います。これは、家族だけでなく、久しく会話していない
友人にも同じことが言えます。メールではなく、電話で会話したり、
ハガキ1枚送ってみてはいかがでしょうか?相手も嬉しいでしょうが
連絡を取って相手と会話した自分自身もスッキリした気分になる
ことでしょう。
/hero
先週取得できると思っていたら、業務の都合で
延期となり、やっと取れ始めたのが幸い(?)
にも先週金曜からでした。つまり、連休と重なって
取得することができているので、今も長い休暇中です。
(とはいえ、自宅にいながら仕事はしていますが…)
仕事のことはいいとして、先週末、父の古希のお祝いを
しました。恥ずかしながら古希(こき)ということを知らなかった
私ですが、一言でいうと「70歳を祝う」ということですね。
3兄弟とその家族皆が(滅多に会えない中)ようやく
久しぶりに会えたわけですが、やっぱり家族っていいです
よね。特にコミュニケーションをとらなくても何となく
通じ合っているところがいいです。物事を論理的に伝える
だとか、研修で学んで業務でも活かすよう色々と実行しては
いますが、あのように神経を使って会話する必要が家族とは
一切必要がありません。そんな家族のようなコミュニケーションが
とれるっていいなぁとあらためて感じました。
皆さんはそのようなコミュニケーションがとれていますか?
何か初心に戻ったというか、原点に戻ったような気がちょっとして、
いつも無理していた自分を改めて見直すことができた感じが
しました。
「家族愛」って、いいですよねー。
久しく帰省されていない方も、時間をとってちょっと顔を
だしてみませんか?もしくは、電話で「元気?」の一言だけでも
いいと思います。これは、家族だけでなく、久しく会話していない
友人にも同じことが言えます。メールではなく、電話で会話したり、
ハガキ1枚送ってみてはいかがでしょうか?相手も嬉しいでしょうが
連絡を取って相手と会話した自分自身もスッキリした気分になる
ことでしょう。
/hero
2011年9月12日月曜日
コラムVol.169 【コミュニケーションの根っこには食べ物がある】
小学校が夏休みとなり、私も同時に長期休暇となりました。
日ごろ疎かになっている家事に集中と計画していたのが、
つい気が緩んで、怠け癖はおいそれとは直らないようです。
やれ娘のつわりで、おさんどんに静岡へ、毎日仕事で貢献出来なかった
市通訳派遣の予定を入れたりと、何かと忙しい日々。
8月は半ばより車で九州福岡へ帰る計画を息子と計画し、9月2日に
戻ってくるというハードスケジュール。それが今頃疲れが出始め、
歳を感じています。
前置きが長くなりました。実は表題はその九州の大分で聞いた講演での
内容の一部分です。前回も“食”に関心があると言っていた私。
彼がこのことを言うや、グッと私は共感したのです。
誰が、どのように、どんな場所で、どんなものを食べるか?
差別の根幹には食物も大きな要素になっている。
例えばイスラム教、ヒンドゥー教、大乗仏教、小乗仏教で食する肉が違う。
文明や宗教によって異なり・・・と聴くにつけ、おおいにうなづけました。
現代はグローバル化が進み、日本においても世界の様々な食文化が混じっています。
とても恵まれた環境にあるといっても過言ではありません。
そのような状況下で家庭の食事(食卓)はどうなっているでしょうか?
コミュニケーションの最小単位と言える家庭が揺らぐとどうなるか?
最近小学校の昇降口で泣いている低学年の子供。日替わりメニューのように
体操着、上履き、給食エプロンなど忘れてくる子が恥ずかしくて教室へ入れない。
しっかり家でお母さんやお父さんと話が出来ていない、また親も子が学校でどんな
様子なのか気にならない。たぶん親も小さい時に、そういう気遣いをされなかった
のかもしれません。
ご飯を食べるその時が言葉かけ(ふれあい)の大事なひと時であって欲しい。
「母は自分にしっかり愛情を注いでくれた。今までこの歳になるまで大病を
しなかったのは、母が美味しい食事や自然の営みを教えてくれたおかげ」と
姜尚中(カンサンジュン)氏。講演を聴いてますますファンになった私です。
//motto-to//
日ごろ疎かになっている家事に集中と計画していたのが、
つい気が緩んで、怠け癖はおいそれとは直らないようです。
やれ娘のつわりで、おさんどんに静岡へ、毎日仕事で貢献出来なかった
市通訳派遣の予定を入れたりと、何かと忙しい日々。
8月は半ばより車で九州福岡へ帰る計画を息子と計画し、9月2日に
戻ってくるというハードスケジュール。それが今頃疲れが出始め、
歳を感じています。
前置きが長くなりました。実は表題はその九州の大分で聞いた講演での
内容の一部分です。前回も“食”に関心があると言っていた私。
彼がこのことを言うや、グッと私は共感したのです。
誰が、どのように、どんな場所で、どんなものを食べるか?
差別の根幹には食物も大きな要素になっている。
例えばイスラム教、ヒンドゥー教、大乗仏教、小乗仏教で食する肉が違う。
文明や宗教によって異なり・・・と聴くにつけ、おおいにうなづけました。
現代はグローバル化が進み、日本においても世界の様々な食文化が混じっています。
とても恵まれた環境にあるといっても過言ではありません。
そのような状況下で家庭の食事(食卓)はどうなっているでしょうか?
コミュニケーションの最小単位と言える家庭が揺らぐとどうなるか?
最近小学校の昇降口で泣いている低学年の子供。日替わりメニューのように
体操着、上履き、給食エプロンなど忘れてくる子が恥ずかしくて教室へ入れない。
しっかり家でお母さんやお父さんと話が出来ていない、また親も子が学校でどんな
様子なのか気にならない。たぶん親も小さい時に、そういう気遣いをされなかった
のかもしれません。
ご飯を食べるその時が言葉かけ(ふれあい)の大事なひと時であって欲しい。
「母は自分にしっかり愛情を注いでくれた。今までこの歳になるまで大病を
しなかったのは、母が美味しい食事や自然の営みを教えてくれたおかげ」と
姜尚中(カンサンジュン)氏。講演を聴いてますますファンになった私です。
//motto-to//
2011年9月8日木曜日
コラムVol.168 【コミュニケーションの難しさ】
健聴者の私が最近感じるのはコミュニケーションの難しさです。
それは手話のコミュニケーションではなく、海外と一緒に仕事を
している相手とのコミュニケーション(電話とメール)が大変
厳しく意思疎通がなかなか図れないことです。
自分でいうのも何ですが、海外在住歴通算14年にもなるので
英語でのコミュニケーションや国際感覚は通常の方と比べると
長けていると思っています。しかし、今回のビジネス案件は、
日本、ドイツ、イギリス、中国、そしてアメリカと4カ国を
同時に相手しなくてはなりません。時差だけでなく、考え方の
違いもあり、、、数週間前に1週間かけて電話会議で説明した
はずの内容が完全には理解されておらず、あらためて電話会議で
説明する羽目になったりして、開発スケジュールに遅延が起きそうな
勢いでした。
そこで感じたのは、手話でも電話やメールでも同じだと思いますが、
「伝わったと思う」で終わらせないことです。必ず、合意内容だったり
説明した内容を改めて纏めて、理解してもらえたはずの内容を再度
確認することまで徹底しないと、誤解というものは必ず発生します。
そして、できれば、再確認は、文化の差や時差に左右されないよう
メールなど、文字を使用することです。そうすることで、誤解は
最小限に抑えられます。
振り返って考えてみると、今回の私の場合も、「伝わったと思う」と
ある意味一方的に決め付けていたわけであり、それを再確認するこを
怠っていたとも考えられます。相手方にも落ち度はきっとあるかも
しれませんが、まずは、自分自身を振り返り、意思疎通が明確になる
ようにしていくことが重要だということを改めて認識しました。
是非、皆さんもご参考まで。
/hero
それは手話のコミュニケーションではなく、海外と一緒に仕事を
している相手とのコミュニケーション(電話とメール)が大変
厳しく意思疎通がなかなか図れないことです。
自分でいうのも何ですが、海外在住歴通算14年にもなるので
英語でのコミュニケーションや国際感覚は通常の方と比べると
長けていると思っています。しかし、今回のビジネス案件は、
日本、ドイツ、イギリス、中国、そしてアメリカと4カ国を
同時に相手しなくてはなりません。時差だけでなく、考え方の
違いもあり、、、数週間前に1週間かけて電話会議で説明した
はずの内容が完全には理解されておらず、あらためて電話会議で
説明する羽目になったりして、開発スケジュールに遅延が起きそうな
勢いでした。
そこで感じたのは、手話でも電話やメールでも同じだと思いますが、
「伝わったと思う」で終わらせないことです。必ず、合意内容だったり
説明した内容を改めて纏めて、理解してもらえたはずの内容を再度
確認することまで徹底しないと、誤解というものは必ず発生します。
そして、できれば、再確認は、文化の差や時差に左右されないよう
メールなど、文字を使用することです。そうすることで、誤解は
最小限に抑えられます。
振り返って考えてみると、今回の私の場合も、「伝わったと思う」と
ある意味一方的に決め付けていたわけであり、それを再確認するこを
怠っていたとも考えられます。相手方にも落ち度はきっとあるかも
しれませんが、まずは、自分自身を振り返り、意思疎通が明確になる
ようにしていくことが重要だということを改めて認識しました。
是非、皆さんもご参考まで。
/hero
2011年8月12日金曜日
コラムVol.167 【年代ごとの本】
最近、「○代にしておきたいこと20の話」など、
20代、30代、40代など年代ごとにおすすめする本が
本屋で多くみかけるようになってきたと思いませんか。
年代を題名にすれば、自分に関係する本だという心理的な作戦も
含まれていると思います。年代にすれば、幅広い年齢層をターゲットできるし、
本を手に取る人が多くなるという心理的戦略な面もあると思います。
同年代だからこそ、わかることや今、気をつけたいことなどが
書かれてあり、興味深く読めてしまうものだと思います。
私も、自分の年代にあてはまる本を取らずにはいられません。
そこには、何より、共感できる部分が多く書かれていることがあり、
参考として読めてしまうからです。
20代には20代、30代には30代、40代には40代、50代には50代、
60代には60代なりの生き方があります。
人は、それぞれ役割を持って演じています。
例えば、「20代で既婚者の女性の場合」、
ある時は子どもで、ある時は母親で、ある時は妻で、
ある時は関係団体の会長で、ある時はおばちゃんで、
ある時は患者で、ある時は社長夫人で、ある時は市民で、
ある時は社会人学生・・・
など、一人の人が時と関係性によって、いくつもの役割を
持って演じています。
役割に合った生き方も年代によって異なってきます。
その生き方を社会を通して教えてくれることもあれば、
本を通して教えてくれることもあります。
一参考として、今回は本を通して、自らの生き方を考えてみては
どうだろうかということです。
今、お盆の真っただ中であり、
帰省時の空いた時間に年代ごとの本を読んでみてはいかがでしょうか。
年代ごとの本に限らず、気持ちに寄り添ったエッセイなども読んでみてはいかがでしょうか。
今までにない気づきを得ることが出来るかもしれません。
//mivi//
20代、30代、40代など年代ごとにおすすめする本が
本屋で多くみかけるようになってきたと思いませんか。
年代を題名にすれば、自分に関係する本だという心理的な作戦も
含まれていると思います。年代にすれば、幅広い年齢層をターゲットできるし、
本を手に取る人が多くなるという心理的戦略な面もあると思います。
同年代だからこそ、わかることや今、気をつけたいことなどが
書かれてあり、興味深く読めてしまうものだと思います。
私も、自分の年代にあてはまる本を取らずにはいられません。
そこには、何より、共感できる部分が多く書かれていることがあり、
参考として読めてしまうからです。
20代には20代、30代には30代、40代には40代、50代には50代、
60代には60代なりの生き方があります。
人は、それぞれ役割を持って演じています。
例えば、「20代で既婚者の女性の場合」、
ある時は子どもで、ある時は母親で、ある時は妻で、
ある時は関係団体の会長で、ある時はおばちゃんで、
ある時は患者で、ある時は社長夫人で、ある時は市民で、
ある時は社会人学生・・・
など、一人の人が時と関係性によって、いくつもの役割を
持って演じています。
役割に合った生き方も年代によって異なってきます。
その生き方を社会を通して教えてくれることもあれば、
本を通して教えてくれることもあります。
一参考として、今回は本を通して、自らの生き方を考えてみては
どうだろうかということです。
今、お盆の真っただ中であり、
帰省時の空いた時間に年代ごとの本を読んでみてはいかがでしょうか。
年代ごとの本に限らず、気持ちに寄り添ったエッセイなども読んでみてはいかがでしょうか。
今までにない気づきを得ることが出来るかもしれません。
//mivi//
2011年8月6日土曜日
コラムVol.166 【コミュニケーション能力を身につけていくということ】
ドラゴンクエストや、ファイナルファンタジーといったロールプレイング
ゲームをはじめ、いろいろなゲームが衰えを見せずに流行っている。
それにはまり、のめり込むようにゲームをする子どもたちも爆発的に増加
してきていることは、レストランや喫茶店に座っている子どもたちを見れ
ば一目瞭然だ。しかも、電車の中でも道路と至るところで、子どもたちは
手にゲーム機を持って、手や頭をせわしなく動かしている。
あるレストランで食事をしていたときの話だが、隣のテーブルに親子が座
っていたが、子どもは店の中に入ってからも、ゲーム機の画面から目を離
さない。
母親は何を食べるか聞いても子どもは画面から目を離さず、「○○ちょう
だい」とだけ言って、ゲームに再び熱中し始めた。
母親はというと、そのまま携帯を取り出して、いろいろやりはじめたでは
ないか。こうした状況がご飯が来るまでの間ずっと続いていた。食べ終わ
った後も会話がまったくない状態が続いていた。
不思議なほどに、親子の会話がまったくと言っていいほどないのだ。しか
もそれが一組だけではない。多いのだ。いったいなぜだろうか。
・子どもにゲームをやらせておけば、自分のやりたいことが出来る。
・ゲームをやっている子どもが楽しそうで、そのままにしときたい。
・子どもを叱ることが怖い、難しい。
といったような理由も考えられるだろうけど、親子ではやっぱり目と目を合
わせるコミュニケーションが必要だ。
それが出来なくなってしまうと、他人と意見をぶつけたり、分かち合ったり
する能力が育たなくなり、社会性を身につける事が難しくなる。
その他にも心配することがいくつか出てくる。バーチャル世界と現実世界と
の区別が付きにくくなる可能性が出るのだ。
そのようなゲームがなかったころの子どもたちはというと、そとに出かけ自
然とふれあったり、身体と身体をぶつけ合ったり、汗や泥まみれになって・
・・といかにも健康的な遊びをやっていたことが多い。
かくいう私も弟や近所の子どもたちと一緒に小川にいってザリガニをとった
り、網をもって蝉やカブトムシをとりにいったり、縄跳びで遊んだり、かく
れんぼや鬼ごっこをやったものだ。
生身の人間同士の遊びなので、当然ケンカもあった。
一緒に遊んでいた子どもか、近くで見ていた大人が仲裁に入る。最後はお互
いに謝る。そして握手をして仲直りする。この経験は社会にでてからもかな
りといって良いほど役に立つものだと信じている。これが真のコミュニケー
ションではないか、とさえ思う。
そういう環境がない、とか、時間が足りないという方もいらっしゃるだろう。
でもどのようなケースであれ、親の都合でしかない。子どもたちは親の都合
の中で生きていくようなものなのだから。
なかなかコミュニケーションが取れない状態であっても、出来る限りのコミ
ュニケーションをとろうと努力する親の背中を子どもはしっかり見て分かっ
ているし、伝わっているはずだ。
「子どもだから、どうせ分からないだろう」という目論見は捨て、一人の人
間として扱うように話をしようとすれば、それに応じてくれるはずだ。
私個人として、これまでに何人もの子どもたちとカウンセリングなどで接
してきたが、大人よりも感受性が良く、洞察力や観察力においては大人より
も優れており、甘く見ては失敗するだろう。
子どもの潜在能力を侮るなかれ。
ash
ゲームをはじめ、いろいろなゲームが衰えを見せずに流行っている。
それにはまり、のめり込むようにゲームをする子どもたちも爆発的に増加
してきていることは、レストランや喫茶店に座っている子どもたちを見れ
ば一目瞭然だ。しかも、電車の中でも道路と至るところで、子どもたちは
手にゲーム機を持って、手や頭をせわしなく動かしている。
あるレストランで食事をしていたときの話だが、隣のテーブルに親子が座
っていたが、子どもは店の中に入ってからも、ゲーム機の画面から目を離
さない。
母親は何を食べるか聞いても子どもは画面から目を離さず、「○○ちょう
だい」とだけ言って、ゲームに再び熱中し始めた。
母親はというと、そのまま携帯を取り出して、いろいろやりはじめたでは
ないか。こうした状況がご飯が来るまでの間ずっと続いていた。食べ終わ
った後も会話がまったくない状態が続いていた。
不思議なほどに、親子の会話がまったくと言っていいほどないのだ。しか
もそれが一組だけではない。多いのだ。いったいなぜだろうか。
・子どもにゲームをやらせておけば、自分のやりたいことが出来る。
・ゲームをやっている子どもが楽しそうで、そのままにしときたい。
・子どもを叱ることが怖い、難しい。
といったような理由も考えられるだろうけど、親子ではやっぱり目と目を合
わせるコミュニケーションが必要だ。
それが出来なくなってしまうと、他人と意見をぶつけたり、分かち合ったり
する能力が育たなくなり、社会性を身につける事が難しくなる。
その他にも心配することがいくつか出てくる。バーチャル世界と現実世界と
の区別が付きにくくなる可能性が出るのだ。
そのようなゲームがなかったころの子どもたちはというと、そとに出かけ自
然とふれあったり、身体と身体をぶつけ合ったり、汗や泥まみれになって・
・・といかにも健康的な遊びをやっていたことが多い。
かくいう私も弟や近所の子どもたちと一緒に小川にいってザリガニをとった
り、網をもって蝉やカブトムシをとりにいったり、縄跳びで遊んだり、かく
れんぼや鬼ごっこをやったものだ。
生身の人間同士の遊びなので、当然ケンカもあった。
一緒に遊んでいた子どもか、近くで見ていた大人が仲裁に入る。最後はお互
いに謝る。そして握手をして仲直りする。この経験は社会にでてからもかな
りといって良いほど役に立つものだと信じている。これが真のコミュニケー
ションではないか、とさえ思う。
そういう環境がない、とか、時間が足りないという方もいらっしゃるだろう。
でもどのようなケースであれ、親の都合でしかない。子どもたちは親の都合
の中で生きていくようなものなのだから。
なかなかコミュニケーションが取れない状態であっても、出来る限りのコミ
ュニケーションをとろうと努力する親の背中を子どもはしっかり見て分かっ
ているし、伝わっているはずだ。
「子どもだから、どうせ分からないだろう」という目論見は捨て、一人の人
間として扱うように話をしようとすれば、それに応じてくれるはずだ。
私個人として、これまでに何人もの子どもたちとカウンセリングなどで接
してきたが、大人よりも感受性が良く、洞察力や観察力においては大人より
も優れており、甘く見ては失敗するだろう。
子どもの潜在能力を侮るなかれ。
ash
2011年7月31日日曜日
コラムVol.165 【食べるから生きていける】
先日、小学校での食育に関しての取り組みをテレビで見ました。
実際に、魚屋さんがクラスに来て、魚の説明をします。
そして、目の前で魚をさばいて料理し、お昼に給食で食べます。
すると、魚が苦手な子も「美味しい」と言って食べたりするそうです。
また、実際に畑で野菜を育てたり、田んぼで稲を育てたりして、
成長したら収穫して食べる、という取り組みも行われているようです。
実際に見たり体験したりする事で、
作っている人の苦労を知ったり、
作る過程を学んだり、と
子ども達が得るものは、きっと沢山あるのでしょう。
しかし、物が豊かなこの国で、食べるものがあることの“ありがたみ”は
果たして、どこまで伝わっているのでしょうか。
食べるものを“いただく”事で、生きていける、
そういう命の大切さについて考える事が出来れば、
食べることに関して、もっと違う意識が持てるようになり、
“もったいない”と思ったり、
大事に食べる様になるのではないでしょうか。
ただ、栄養の為に必要だから、と説明したところで、
食べる事や、食べ物の大切さは、
子ども達の心には響かないと思います。
ここに、先生が葛藤しながらも取り組んだ例を紹介します。
1990年、大阪の豊能町立東能勢小学校の6年生のクラスで、
当時新任だった黒田恭史さんが
“学校で豚を育て、大きくなったら食べよう”と提案し、
ブタにPちゃん、と名前をつけて、実際に皆で育て始めます。
“今の授業は、答えのある授業ばかりしている。
筋書きにない授業で、食とは何かを考えさせたい”
しかし、この話が報道されると「残酷だ。」と批判が殺到し、賛否両論を呼びます。
この話は2008年に“ブタがいた教室”として映画化されました。
映画に出演した子ども達も、実際に3ヶ月間、豚を育てました。
最後にPちゃんの処遇を決めるクラスでの話し合いのシーン。
台本は無く、子ども達一人一人が考えた意見を、自由に言うようにしたそうです。
食べる派、食べない派に二分し、議論は白熱します。
子ども達は涙を浮かべながら、必死にブタをどうするか考えます。
映画のワンシーンでも、子ども達が命と真剣に向き合っている、
という臨場感がとても伝わってきます。
“Pちゃんを可愛がって育ててきたのだから、殺すのはかわいそう、
どうしても食べる事は出来ない、”という意見。
“かわいそうだけど、卒業と考えたらどうか。
ブタを出荷している人も可愛がって育てているのに、
私達が食べるために出荷しなきゃならないのは、ツライのでは?”という意見。
黒田先生は結論をどうするか悩みます。
そして…、
先生は、Pちゃんを食肉工場に送る事に決めました。
“食べる為に育てる”という原点に戻って、結論を下したそうです。
その結論を下した後も、それで本当に良かったのか、
先生はとても悩んだそうです。
卒業した生徒と成人式で再会した時に、
「あの授業のおかげで、自分は命の大切さを学ぶ事が出来た。」と生徒から言われたそうです。
果たして、この授業が良かったのか、悪かったのか、
…正解はありません。
この学校は山の中にあり、自然に囲まれた環境で育った子ども達です。
この方法で、都会の学校の子ども達にも
同じように感じさせる事が出来るか、というと、
また違ってくるのかもしれません。
ただ、私達大人も子どもも関係なく、
食べるために殺されている命があること、
命をいただいているのだから、
ありがたいと感じて生きなくてはならないこと、
などなど、もっと感じて食べなくてはいけないなぁ、と考えさせられました。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか?
夏になり、暑くなると食欲も無くなりがちですし、
悩み事があると、食べられなかったりしますが、
食べ物があることのありがたさ、
命をいただいていることのありがたさを噛み締めながら、
しっかり食べて、
心にも体にも栄養を。
生きる為の力をつけていきたいです。
心と体は
つながっていますものね。
†Blue Luna†
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