2011年10月12日水曜日

コラムVol.172 【友達】

小さい頃に裏の山や野原、田んぼで一緒に鬼ごっこをしたり、ちゃんばらごっこやままごとをした友達。
小学校まで手をつないで通って、帰りに家にきてカードゲームをした友達。
部活動で一緒に汗と涙を流したり、サークルでわいわいがやがややった友達。
会社の仕事が終わって、一緒に呑みに行って、上司のグチを言ったり、自慢を言い合う友達(同僚)。

成長と共に友達も変わっていくと思います。
引っ越しで離ればなれになると、連絡も疎通になってしまう人もいれば、まめに連絡を取り合って、長い間友達
関係を維持している方もいます。

確かに環境が変われば、自分の中での友達への関わり方も、友達を選ぶ基準もすっかりかわってしまう可能性も
あります。環境も一つのきっかけとしては欠かせない要素になります。環境以外にも、必要以上に友達を作ろう
としないで、限られた人と交友関係を持つ性格をもつ人もいます。

私がここで言いたいのは、広い交友関係を持っているからといって良いという訳ではないのです。

本当に心からお互いに尊敬し合うことができて、本気でぶつかる事が出来る友達は沢山いらないと思うし、作る
ことは出来ないと思います。どんなに頑張っても10人も作ることは出来ないでしょう。

そのようなかけがえのない友達を親友、心の友と表現する方もいますが、そのような関係を持つためには、自分
自身を相手に心のうちをさらけ出す必要があると考えています。

でも、心をさらけ出すなんて、怖い。と思う方も意外と沢山います。私もかつてそうだったのだから。

しかし、心をさらけ出すことは逆に言えば、相手も自分にさらけ出してくれる可能性があり、お互いにさらけ出
すことが出来るようになれば、その関係がとても心地よいと感じるようになり、一種の安堵感を得ることが出来
ます。

いろいろな紆余曲折を経て、最終的にお互いに信頼できる親友が出来れば、人生の楽しみがまた一つ増えるかも
しれません。

どうか、友達を作ることをおそれずに、自然体で接してみてください。

あなたが自分で気づかない魅力を誰かが気づけば、いつの間にか友達になっていた、というようなことは良くあ
る話なのです。

あなたの人生を豊かにできるかどうかは、家族はもちろんですが、友達の存在も欠かせないのです。

2011年9月26日月曜日

コラムVol.171 【今を生きる人へ】

これは、あるドラマの中で印象に残ったセリフです。

正直に生きないと、いつまでも自分に問い詰めることになる。
「もし、あのとき」


巷では、人は、後悔だらけの人生を過ごすといわれています。
もちろん、幸せだらけの人生を過ごすこともありますが、
なぜか、記憶に強烈に残るのは
幸せより悔いの方だったりしませんか。


人は、いくつもある選択肢から自分にとって最適な方法をとったつもりでも、
納得いかない結果、自分に嘘をついたままや犠牲などが生じると、
必ず、葛藤が起こります。
それが、
「もし、あのとき・・・」
そう、他の選択をしたときの可能性を確かめたくなることがあるのではないでしょうか。

どんな過程がありましても、自分が自分らしく生きるためには、
きちんと自問自答しながら正直に生きることが最短の距離ではないでしょうか。

ただし、人生に不正解はありません。
たとえ、選んだ道が誤っていたとしても、
その道を選ぶまでの過程を、自分にとっての最良な方法で決定した上、それらを受け入れたからこそ、
その道があるのだと思います。
それぞれの道には必ず、自分の好ましい方向へ導ける見えないレールがあります。
時には、進むべき道または進んだ道の中には、何かを責めたり何かを犠牲にしたり
することもあるかもしれません。

あなたは、
あのときのことを今でも、自分に問い詰めてしまっていることはありませんか。
もちろん、ある方やない方、わからない方など、さまざまな方がいらっしゃると思います。

ですから、「もし、あのとき」をなるべく駆使しないよう、
そうならないよう、今を大事にして、自分が本当に求めていることは何なのか、
飾りではない、正直なありのままの自分でいられるよう、
こころの準備や整理をし始めてみてはいかがでしょうか。
その今でさえも、1秒後には過去になってしまいますから。

//mivi//

2011年9月22日木曜日

コラムVol.170 【古希のお祝い】

なかなか取れていなかった夏季休暇をようやく
先週取得できると思っていたら、業務の都合で
延期となり、やっと取れ始めたのが幸い(?)
にも先週金曜からでした。つまり、連休と重なって
取得することができているので、今も長い休暇中です。
(とはいえ、自宅にいながら仕事はしていますが…)

仕事のことはいいとして、先週末、父の古希のお祝いを
しました。恥ずかしながら古希(こき)ということを知らなかった
私ですが、一言でいうと「70歳を祝う」ということですね。

3兄弟とその家族皆が(滅多に会えない中)ようやく
久しぶりに会えたわけですが、やっぱり家族っていいです
よね。特にコミュニケーションをとらなくても何となく
通じ合っているところがいいです。物事を論理的に伝える
だとか、研修で学んで業務でも活かすよう色々と実行しては
いますが、あのように神経を使って会話する必要が家族とは
一切必要がありません。そんな家族のようなコミュニケーションが
とれるっていいなぁとあらためて感じました。

皆さんはそのようなコミュニケーションがとれていますか?
何か初心に戻ったというか、原点に戻ったような気がちょっとして、
いつも無理していた自分を改めて見直すことができた感じが
しました。

「家族愛」って、いいですよねー。
久しく帰省されていない方も、時間をとってちょっと顔を
だしてみませんか?もしくは、電話で「元気?」の一言だけでも
いいと思います。これは、家族だけでなく、久しく会話していない
友人にも同じことが言えます。メールではなく、電話で会話したり、
ハガキ1枚送ってみてはいかがでしょうか?相手も嬉しいでしょうが
連絡を取って相手と会話した自分自身もスッキリした気分になる
ことでしょう。

/hero

2011年9月12日月曜日

コラムVol.169 【コミュニケーションの根っこには食べ物がある】

小学校が夏休みとなり、私も同時に長期休暇となりました。
日ごろ疎かになっている家事に集中と計画していたのが、
つい気が緩んで、怠け癖はおいそれとは直らないようです。


やれ娘のつわりで、おさんどんに静岡へ、毎日仕事で貢献出来なかった
市通訳派遣の予定を入れたりと、何かと忙しい日々。
8月は半ばより車で九州福岡へ帰る計画を息子と計画し、9月2日に
戻ってくるというハードスケジュール。それが今頃疲れが出始め、
歳を感じています。


前置きが長くなりました。実は表題はその九州の大分で聞いた講演での
内容の一部分です。前回も“食”に関心があると言っていた私。
彼がこのことを言うや、グッと私は共感したのです。


誰が、どのように、どんな場所で、どんなものを食べるか?
差別の根幹には食物も大きな要素になっている。
例えばイスラム教、ヒンドゥー教、大乗仏教、小乗仏教で食する肉が違う。
文明や宗教によって異なり・・・と聴くにつけ、おおいにうなづけました。
 
現代はグローバル化が進み、日本においても世界の様々な食文化が混じっています。
とても恵まれた環境にあるといっても過言ではありません。
そのような状況下で家庭の食事(食卓)はどうなっているでしょうか?
コミュニケーションの最小単位と言える家庭が揺らぐとどうなるか?


最近小学校の昇降口で泣いている低学年の子供。日替わりメニューのように
体操着、上履き、給食エプロンなど忘れてくる子が恥ずかしくて教室へ入れない。
しっかり家でお母さんやお父さんと話が出来ていない、また親も子が学校でどんな
様子なのか気にならない。たぶん親も小さい時に、そういう気遣いをされなかった
のかもしれません。
ご飯を食べるその時が言葉かけ(ふれあい)の大事なひと時であって欲しい。



「母は自分にしっかり愛情を注いでくれた。今までこの歳になるまで大病を
しなかったのは、母が美味しい食事や自然の営みを教えてくれたおかげ」と
姜尚中(カンサンジュン)氏。講演を聴いてますますファンになった私です。

//motto-to//

2011年9月8日木曜日

コラムVol.168  【コミュニケーションの難しさ】 

健聴者の私が最近感じるのはコミュニケーションの難しさです。
それは手話のコミュニケーションではなく、海外と一緒に仕事を
している相手とのコミュニケーション(電話とメール)が大変
厳しく意思疎通がなかなか図れないことです。
自分でいうのも何ですが、海外在住歴通算14年にもなるので
英語でのコミュニケーションや国際感覚は通常の方と比べると
長けていると思っています。しかし、今回のビジネス案件は、
日本、ドイツ、イギリス、中国、そしてアメリカと4カ国を
同時に相手しなくてはなりません。時差だけでなく、考え方の
違いもあり、、、数週間前に1週間かけて電話会議で説明した
はずの内容が完全には理解されておらず、あらためて電話会議で
説明する羽目になったりして、開発スケジュールに遅延が起きそうな
勢いでした。

そこで感じたのは、手話でも電話やメールでも同じだと思いますが、
「伝わったと思う」で終わらせないことです。必ず、合意内容だったり
説明した内容を改めて纏めて、理解してもらえたはずの内容を再度
確認することまで徹底しないと、誤解というものは必ず発生します。
そして、できれば、再確認は、文化の差や時差に左右されないよう
メールなど、文字を使用することです。そうすることで、誤解は
最小限に抑えられます。

振り返って考えてみると、今回の私の場合も、「伝わったと思う」と
ある意味一方的に決め付けていたわけであり、それを再確認するこを
怠っていたとも考えられます。相手方にも落ち度はきっとあるかも
しれませんが、まずは、自分自身を振り返り、意思疎通が明確になる
ようにしていくことが重要だということを改めて認識しました。

是非、皆さんもご参考まで。

/hero

2011年8月12日金曜日

コラムVol.167  【年代ごとの本】 

最近、「○代にしておきたいこと20の話」など、
20代、30代、40代など年代ごとにおすすめする本が
本屋で多くみかけるようになってきたと思いませんか。

年代を題名にすれば、自分に関係する本だという心理的な作戦も
含まれていると思います。年代にすれば、幅広い年齢層をターゲットできるし、
本を手に取る人が多くなるという心理的戦略な面もあると思います。

同年代だからこそ、わかることや今、気をつけたいことなどが
書かれてあり、興味深く読めてしまうものだと思います。


私も、自分の年代にあてはまる本を取らずにはいられません。
そこには、何より、共感できる部分が多く書かれていることがあり、
参考として読めてしまうからです。

20代には20代、30代には30代、40代には40代、50代には50代、
60代には60代なりの生き方があります。


人は、それぞれ役割を持って演じています。

例えば、「20代で既婚者の女性の場合」、
ある時は子どもで、ある時は母親で、ある時は妻で、
ある時は関係団体の会長で、ある時はおばちゃんで、
ある時は患者で、ある時は社長夫人で、ある時は市民で、
ある時は社会人学生・・・
など、一人の人が時と関係性によって、いくつもの役割を
持って演じています。

役割に合った生き方も年代によって異なってきます。
その生き方を社会を通して教えてくれることもあれば、
本を通して教えてくれることもあります。
一参考として、今回は本を通して、自らの生き方を考えてみては
どうだろうかということです。

今、お盆の真っただ中であり、
帰省時の空いた時間に年代ごとの本を読んでみてはいかがでしょうか。
年代ごとの本に限らず、気持ちに寄り添ったエッセイなども読んでみてはいかがでしょうか。
今までにない気づきを得ることが出来るかもしれません。



//mivi//

2011年8月6日土曜日

コラムVol.166  【コミュニケーション能力を身につけていくということ】 

ドラゴンクエストや、ファイナルファンタジーといったロールプレイング
ゲームをはじめ、いろいろなゲームが衰えを見せずに流行っている。

それにはまり、のめり込むようにゲームをする子どもたちも爆発的に増加
してきていることは、レストランや喫茶店に座っている子どもたちを見れ
ば一目瞭然だ。しかも、電車の中でも道路と至るところで、子どもたちは
手にゲーム機を持って、手や頭をせわしなく動かしている。

あるレストランで食事をしていたときの話だが、隣のテーブルに親子が座
っていたが、子どもは店の中に入ってからも、ゲーム機の画面から目を離
さない。

母親は何を食べるか聞いても子どもは画面から目を離さず、「○○ちょう
だい」とだけ言って、ゲームに再び熱中し始めた。

母親はというと、そのまま携帯を取り出して、いろいろやりはじめたでは
ないか。こうした状況がご飯が来るまでの間ずっと続いていた。食べ終わ
った後も会話がまったくない状態が続いていた。

不思議なほどに、親子の会話がまったくと言っていいほどないのだ。しか
もそれが一組だけではない。多いのだ。いったいなぜだろうか。

・子どもにゲームをやらせておけば、自分のやりたいことが出来る。
・ゲームをやっている子どもが楽しそうで、そのままにしときたい。
・子どもを叱ることが怖い、難しい。

といったような理由も考えられるだろうけど、親子ではやっぱり目と目を合
わせるコミュニケーションが必要だ。

それが出来なくなってしまうと、他人と意見をぶつけたり、分かち合ったり
する能力が育たなくなり、社会性を身につける事が難しくなる。

その他にも心配することがいくつか出てくる。バーチャル世界と現実世界と
の区別が付きにくくなる可能性が出るのだ。

そのようなゲームがなかったころの子どもたちはというと、そとに出かけ自
然とふれあったり、身体と身体をぶつけ合ったり、汗や泥まみれになって・
・・といかにも健康的な遊びをやっていたことが多い。

かくいう私も弟や近所の子どもたちと一緒に小川にいってザリガニをとった
り、網をもって蝉やカブトムシをとりにいったり、縄跳びで遊んだり、かく
れんぼや鬼ごっこをやったものだ。

生身の人間同士の遊びなので、当然ケンカもあった。

一緒に遊んでいた子どもか、近くで見ていた大人が仲裁に入る。最後はお互
いに謝る。そして握手をして仲直りする。この経験は社会にでてからもかな
りといって良いほど役に立つものだと信じている。これが真のコミュニケー
ションではないか、とさえ思う。

そういう環境がない、とか、時間が足りないという方もいらっしゃるだろう。
でもどのようなケースであれ、親の都合でしかない。子どもたちは親の都合
の中で生きていくようなものなのだから。

なかなかコミュニケーションが取れない状態であっても、出来る限りのコミ
ュニケーションをとろうと努力する親の背中を子どもはしっかり見て分かっ
ているし、伝わっているはずだ。

「子どもだから、どうせ分からないだろう」という目論見は捨て、一人の人
間として扱うように話をしようとすれば、それに応じてくれるはずだ。

私個人として、これまでに何人もの子どもたちとカウンセリングなどで接
してきたが、大人よりも感受性が良く、洞察力や観察力においては大人より
も優れており、甘く見ては失敗するだろう。

子どもの潜在能力を侮るなかれ。

ash