2013年2月2日土曜日

コラムVol.183


2013年始動から1ヶ月。誰しもが今年は良い年となるよう願ってやまないが、
ここ最近スポーツ界での暴力問題を思った時、ちょうど一ヶ月前の箱根駅伝を思い出していた。
チームワーク。自分との戦い。力の限界への挑戦。全力でぶつかっていくランナーの顔つき。
この全部が魅力である。

2日往路。山登り最後の5区であまりの風と体感温度の喪失で体調を崩し、2つの大学が
棄権となってしまった。万全を期して臨んだだろうが、何が起きるか分からない。
日体大が26年ぶりの往路優勝。そして3日復路、30年ぶりの総合優勝を成し遂げた。
昨年は19位と今までになく最下位となり、初めて監督が選手の前で涙したという。
私がその場を見ていたわけではないが、その時選手全員涙し、監督は一緒の気持ちで
涙したのではと推察している。そこに暴力は存在しただろうか・・。
選手の思い、監督の思いがひとつになって目標を定め、今までにない力が湧き上がったと
確信している。

カウンセラーとして一番大切なことに傾聴、共感ということがある。
相手がどういう人か先入観を持たず対面し、話したくなるまで待ちつづける根気がいる。
そして一言、二言の言葉の端にその人の気持ちを見出していく。
その言葉のキャッチボールが段々スムーズになっていく過程(プロセス)が大事である。
会話をしているうちに自分が直面している問題は何かが分かってくるのは不思議である。

自分もやる気を起こすのに一苦労するが、ましてや他人を奮起させるのは並大抵のことではないだろう。人それぞれに個々の対応は難しいかもしれない。しかし指導者となったからには、自覚し努力し続けること(つきあい上手、下手は二の次)が大切と感じている。

今年も現地箱根5区に赴き応援し、感動で鳥肌が立ったと埼玉のろう夫婦。年賀状で去年も佐賀での105キロウォーキング大会やマラソンを完走できたと報告の福岡のろう夫婦。
私たちにこのような感動を与えてくれるスポーツ。2013年も期待している。

平成25年2月2日
//motto-to//

2012年7月30日月曜日

コラムVol.182 【 気持ちの余裕はどこから?無理をしている自分がいませんか?】


気持ちの余裕はどこから?無理をしている自分がいませんか?

4月30日。ここ1週間の痛ましい交通事故には目を覆いたくなる。
原因は居眠りがほとんどであるが、1件は癲癇の持病をもつ人の運転であった。
未成年の無免許も忘れてはならない。
突然に事故の加害者になり、被害者になってそのショックたるや想像を絶するものがある。被害者は受身。いつふりかかるかは予測不能。しかし加害者には必ず原因がある。
連日の勤務で睡眠不足、勤務マニュアルの不徹底(不景気による人員削減のため無理なシフトになっていた可能性もある)、また自信過剰、あるいは断りきれない性格、いずれにしてもちょっとした油断が命取りになってしまったに違いない。

7月1日。沖縄の梅雨が明けた。ここ関東地域ももうすぐ梅雨明けとなるころだろう。
今年はぜひとも鎌倉とまでは行けないが、紫陽花の花を見たいものと思っていたのに
実現することもなく、ただただ忙しいと自分に余裕が持てないままだった。


このように3ヶ月の間隔が空き、私の環境が一変してしまったことが良くわかる。
夫が毎日朝4,5時起きで出勤、弁当持参。
息子一応漫画家、朝6時まで起きていて、昼夜逆転の生活。一日2食。
私といえば仕事が不定期に入り、夜はついつい居眠りをして深夜1時になることも。

こんなことでは心に余裕を持てるわけがない。
なんという生活のリズムになったのかと振り返ってみてつくづく感じている。
ストレスも溜まっているのか、身体にも変化が現れている。
でもまあ、更年期特有の症状ではあるが・・・。

7月12日。今までにない大雨の被害があちらこちらで起こっている。
毎日の二ユースでいい話題は少なく事件性のあることばかりが先行しているが、少なくとも自分の余裕のなさが原因で、事故につながるようなことは避けたいものである。

まだまだ梅雨の終わりのあの晴れ渡った青空とはいかないようだ。


//motto-to//

2012年3月5日月曜日

コラムVol.181 【節(せつ、ふし)ということから・・・】

早いもので3月3日、ひな祭り。女の子の無事成長や幸せを願う大事な日です。
これは五節の中の3月にあたり遠い昔の中国から由来したようです。
1年の季節の変わり目1月7日(七草)、3月3日(ひな祭り)、
5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽、菊まつり)の節句が
あるのは日本ではもう当たり前になっています。

それと同じく、考え方にも自然に日本人の心のなかにあるんじゃないか。
言い方は違いますが、けじめをつけるとか、一仕事終えて次へとか、
人生の朝(少年期)、昼(成年期)、夜(老年期)・・・など。
私の中に確かに自然と溶け込んでいることを意識しています。
ここで「節」を調べてみると
・あることが行われるとき、ころ、おり。その節は失礼しました。
・自分が正しいと思うことを守り通すこと。みさお。節を曲げる。
・詩歌、文章、楽曲などの一区切り
・スポーツなどで、試合期間の一区切り     ―携帯電話の内蔵辞書より―

ころ、おりということで、はたと「タイミング」と連想してしまいました。

あの時、誤っておけばよかった。
あの時、どうして自分の意見を言えなかったんだろう・・・
あの時、お礼言えばこんな気まずい思いをしなくいても、、、
あの時、いい顔して安請け合いをしてしまった。

また反対に
あの時あの人と出会ったことでいま幸せ
あの出会いがなければこの仕事に就いてなかった。
あの瞬間の判断で、命が助かった。          
あのことが私の進む道を決めた           

このように次から次へと場面が連想されます。

私は今まで何回となく失敗を重ねてきましたが、でもそれが自分の選び取りであると
はっきりわかっています。
その延長線上に今の自分がいるわけです。

3月11日、去年の震災から1年が経ちます。
今まで経験がなかったことにであったらどう対処していいか、判断は難しいです。
今大事なことはなにか?今がその時か?と考える余裕があるか?
その余裕、間が大事なのではないか?
それを一瞬に判断できる能力を身に着けるにはどうしたらよいか・・・

1年目の節目(ふしめ)に、ひな祭りから連想した私でした。



//motto-to//

2012年1月27日金曜日

コラムVol.180 【言語の違いや壁を痛感する】

先週、仕事でアメリカはラスベガスに出張していました。
CESという世界最大の家電市があり、私の勤務先も
今年は大々的に展示したものでした。
この展示会に参加するのは初めてでかなりやる気満々で
行った私ですが、そこにはテレビでしか見たことのない
格好をした異国人がいたり、全く言葉の通じない相手が
いたり、今までの前提知識などが通用しないケースが
度々あり、苦しかったのと同時に面白い体験をしたなぁと
思います。私自身、アメリカ生活は長かったので英語での
会話には問題はないのですが、しかし、ここまでグローバルに
人が集まる場に巡り合える機会はそう多くはなかったので、
言語の違いや壁を改めて感じ取ることができました。

更に言うと、文化の違いもあるのでしょうが、コミュニケーションを
する際の間の使い方、そして、相手との物理的な距離感が
国よって違うということを改めて知ることができたのも
貴重な経験だったと思います。北欧の方は、米国以上に
距離が近く、あまり距離感に抵抗を感じない私でさえ、
今回はちょっと「えっ?」と感じる場面がありました。

当然ではありますが、私達は常に様々な人と接しています。
そして、皆それぞれ違います。外国人の場合は顕著ですが、
日本人の間であっても当然皆違います。
まずは、皆違うということをシッカリと受け止めて、
そして、接するようにしないと、相手との違いのギャップに
後で気がついて、少し気後れしてしまうとそれだけで、
コミュニケーションにもギャップが生まれてしまうように
私は思います。そうしないようにも最初から皆違うんだと
認識しておくことで、コミュニケーションを上手くコントロール
することができるんじゃないでしょうか。

今回の海外出張ではコミュニケーションの方法について
久しぶりに考えさせられました。

/hero/

2012年1月11日水曜日

コラムVol.179 【新年のコラム】

新年あけましておめでとうございます。

去年の暮れは多忙にかまけ、コラムをさぼりがちになってしまいました。
実際、コラムを書くことはエネルギーがいるもので、ネタがあって書こう
と思っても、なかなかかけないこともありますが、今年はがんばってコラム
を書いていこうと思います。ことしもよろしくおねがいいたします。

「便利なものをあえて不便にする」

最近の日本のITやものづくりの技術は目を見張るところが多い。それも
日常の中にすっかりとけ込んでいる。

例えば、

同じ家の中にいながら、パソコンからプリンタへデータをLANなどを使わずに
送って、印刷したり、タッチパネルで電話をかけることができたりする。

技術の進歩はとてもすばらしく、人々が便利に感じることで、生活そのものが
豊かになっていると実感される方も多いことでしょう。

だが、私は便利になりつつあることを喜びつつも、人間としての能力の一つが
失われることを危惧している。

それは、「考えて、動く」という能力である。

ちょっと昔は電話をかけるだけでも、手書きで作成した電話帳の番号を捜し、
番号をダイヤルしなければならないという過程があったが、今はほんの2,3回
ほどタッチするだけで電話がかけられるという時代になってしまった。

人間の脳は使えば使うほど、活性化するというのは周知の通りで、便利になれば
なるほど使う機会は失われるだろう。そうなると、人間の脳は「退化」の二文字を
たどる事になりかねないだろう、と危惧している。

これに関連して、頭に浮かんだことがある。「気を遣う(使う)」だ。
気を遣うことで、心が活性化し、人間性が高くなるのではないかということだ。

気を遣うのは確かに疲れるかもしれない。
だが、「人が気持ちよく使えるように、やりやすいように」自然に行動することは
人間としては失ってはならないことだと思う。

人間が「考えて、動く」ことを止めてしまうと、脳が退化するのと同じように、
「気を遣う」ことを止めてしまうと、心が退化して(=すさんで)しまうのではないか。

気を遣うと、確かにこっちが損をしたような気がするが、それは気のせいだ。
確実にあなたの心は成長し、進歩していることを私が保証する。

今年は、去年のいろいろな教訓をもとに、人間らしさとは何かをさらに考えていきたい
と強く感じている。

これからもどうぞ、私たちの活動を応援していただきたく、よろしくおねがいいたします。

ash

2012年1月1日日曜日

新年のご挨拶

謹んで新年のお祝辞を申し上げます。

旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。

本年も皆様にとって、良き年でありますよう、心からお祈り申し上げます。

本年も引き続き聴心会を宜しくお願い申し上げます。


                  2012年1月吉日
                  日本聴覚障害者心理協会
                     会長 秋元美智子

2011年12月18日日曜日

コラムVol.178 【今年を振り返る】

12月になりましたね。
テレビでも街角でも、クリスマスに向けてにぎやかにふるまってきましたね。
クリスマスが終われば、年末に向けての準備で慌ただしい日々が続き、そのまま新年を迎えることになります。
状況によっては、休まる日がない方もいらっしゃるかもしれません。
また、12月は、一年を振り返る、という月でもあります。

毎年同じことを世間では、やっていますが、
「皆さん、今年はどんな年でしたでしょうか。」

この一年は、早かったでしょうか。長かったでしょうか。
また、いろいろと考えさせられる年になったのでしょうか。

想いはそれぞれ抱えていることでしょう。


振り返る作業は、自分を見つめ直すという意味で大変重要になります。
良いことや悪いことなど、ひっくるめて自己評価してみませんか。
来年へ向けてどのように行うべきか、道が見えてくることもありますから。

自分自身を整理するためには、自分なりの今年のトップニュース10を作ってみませんか。
ささいなことでも、それは思い出として残るし、反省として使える材料になるかもしれません。

来年もみんなが笑顔でハッピーな日々を過ごせることを祈っております。
今年のmiviのコラムは今日でおしまいです。
また、来年お会いしましょう。
良いお年をお迎え下さい。

//mivi//

2011年12月11日日曜日

コラムVol.177

ーとある相談室よりー

12月。1年も終わりに近づき、何かしら気ぜわしく感じるのは私だけでしょうか。

計画したのはいいけれど、中途半端におわっている部屋の整理、衣類の洗濯、

読もうと買った本が何冊も部屋の隅に積んである・・・

時間の管理のしかた、こころの持ち方、自分に対する甘えがしわ寄せの原因ではと

自分でわかっているつもりです。

いや、私は完璧にこなしているという方もいらっしゃるでしょうね。羨ましい限りです。

私ごとはさておき、気になって仕方ないのは、毎日接している子どもたちのこと。



あの子は今日は時間通りに学校へ来ているかな。(毎日遅刻の子です)

朝ごはんはきちんと食べているだろうか。(足が腕ぐらいに細い子です)

忘れ物や宿題をやっているか。(隣の子に教科書を見せてもらっています)

1週間ずっと爪が伸びていて、先が割れてきた子。

朝からあくびが何回も出ている子。

本当に注意深く見ていると様々な様子が伺えます。



小学校低学年は人生の基礎を作る大事な時期です。

昔から読み、書き、そろばん。稽古事は6歳からはじめると良いと言われていますが

そのころに良い習慣を身に着けると、一生の宝になります。


良い習慣は自然と身につくものでしょうか?

いいえ、それには親の力が必要です。


何もかも親がすることは、正しいですか?

いいえ、違いますよね。

では、どういうことが良い手助けでしょうか?


それは良いお手本となるような生活を親がしていることです。

ものの善悪をきちんと分かっていることです。

そして、子どもを慈しみ大事に思う心、

子の話を真剣に聴く、また親の気持ちも伝える時間を、

短時間でもいいから共有することが大切ではないかと

このごろ相談室で思うことです。

(なぜって、言葉がけひとつで子どもの目がキラキラしているんですから!!)



クリスマスが近づいてきました。

プレゼントを楽しみにしている子どもたち。

今年はどのようなプレゼントでしょう。

色んな出来事があった年です。

有意義なイベントになることを祈っています。


//motto-to//

2011年11月26日土曜日

コラムVol.176 【物事に対する取り組み方】

今回は少し真面目な内容になります。
先日私の上司の上司と食事した際に言われたことで
かなり心の奥底に届いたメッセージがありましたので
この場を借りて皆さんとも共有したいと思います。

「もっと暴れろ!遠慮するな!言われたことだけをやって
満足しないこと」

まず、最初に私は言われたことだけをやって満足するタイプ
ではありませんので、そこのところは事前に伝えておきますね。

常に仕事(仕事以外のプライベートでも同じですが)をする
際に上から言われたり、お客様に言われたことだけをやる
ことは、おそらく新入社員や入社数年目くらいまででしょう。
後は、本質を理解しないで仕事をしている人。言われたことを
こなすことで、仕事を完全に全うしていると思っている人は
まだまだ多いし、私も周りで多く見かける機会があります。

しかし、果たして言われたことだけが、本当に正しいのか?
お客様や上司に言われたことはある程度正しいかもしれません。
しかし、もう少しこうしないと、更に利益を得られるのに
チャンスを逃していたり、このままやってしまうとリスクが
高まる事だって十分にありえますよね。其の時に、言われた
ままやっていれば、評価もそこそこ良くなるからといって、
何も言わないのが本当の意味で「成功」といえるでしょうか。
会社としても、お客様にとっても、そして自分にとっても
本当の意味での成功ではないと思います。

また、言われたことに対する行動より、自分自身で能動的に
アクションをおこす方がよりモチベーションも高くなります。
仕事だって言われっぱなしだと楽しくないですからね。

Aやって、Bやって、Cやって、、、と指示ばかりもらって
其の通りにこなすのは、定常業務を目的に雇用された人や、
入社年度の浅い若手社員に任せるべきではないでしょうか。
(勿論、押し付けるべきではなく、若手社員にも色々と
 問題意識を持って取り組んでもらう必要は十二分に必要ですが)

私達(中堅以降)は常に問題意識をもって、全力でタックル
していく気持ちで進まないといけません。

繰り返しになりますが、「物事に対する取り組み方」は
人に言われたことをそのまま受け入れることもできますが
自分自身でよく考え、本質の部分も理解した上で取り組む
ことで、危機(問題)意識が高まり、モチベーションが高まり、
能動的になって、より良い結果が導き出せると考えます。

コミュニケーションの壁を持つ方も多いと思います。
私自身もずっとコミュニケーションの壁はありました。
しかし、その壁って、実は「物事に対する取り組み方」を
少し変えてみることで壁の厚みや高さもまた変化するもの
ではないかなとようやくですが思えるようになってきました。

/hero/

2011年11月7日月曜日

コラムVol.175 【チャレンジする心】

チャレンジしたくなる心を持つことはとても素晴らしいこと。
実際にチャレンジするには、年齢がネックになるという声も少なくない。
それは、若い時にチャレンジをすれば、失敗しても融通がきくからであろうか。

しかし、若い時にチャレンジしたくなるような環境になかった時・・・
それは、もう、手遅れということになるのだろうか。

いや、そんなことはない。

何かを始めるのに、年齢は関係ないのではないだろうか。

ただ、状況によっては難しい場合もある。

人間、基本的に、やりたいと思ったときこそ、始められるものではないかと。
そう、何歳からでも始められるということになる。

手遅れなどで、自分に言い訳を作らず、まずはやってみよう。
やってみたい、その気持ちを大切にしてあげよう。

たとえ、失敗したとしても、やった分だけの優越感を味わったり、
大きな経験を積み重ねたり、自分に自信をつけたりすることができるのだから。

仮にやったことによって、後悔したと思う方も、
やらないで後悔するよりは、断然良いと思いませんか。

さぁ、あなたも、チャレンジするこころを持ったら、
年齢を理由につけず、何事もやってみよう。
人生は、一度きりなのだから。

//mivi//

2011年10月24日月曜日

コラムVol.174 【ー友だちー】

私は1年ぶりに高校の友に久しぶりメールしてみた。

すると不思議なことに

以前職場で一緒だった人からもメールをもらった。

何気ない文がそこにはあった。

 “こんにちは、ご無沙汰です。お元気にしていますか?

よい天気になりましたね。またいつかお茶しましょうね。

風邪ひかないようお互い気をつけましょうね。” 

久しぶりにメールを頂き、嬉しくなってついご自宅にゆっくり電話するからと

返事をしたら、自宅の電話が調子が悪いから・・とメールだけで終わった。

あとで分かったことだが、ご主人があと余命数ヶ月ということで、自宅療養中と。

彼女は勤め傍ら介護をしているということだった。



高校の友も私は気になりつつも連絡を取っていなかった。

彼女も夫の母親を介護しつつ、自営の手助けをしていた。

認知症が年々重くなり、彼女にひどい言葉を投げつけてくるとのこと。

救いは夫が協力して一緒に介護をしてくれていたことだ。

その母親もいま特養に入り、時間が少し持てるようになったとの

ことだった。

 
いまさらながら一人ひとりそれぞれの人生、ドラマが繰り広げられている。 

それが日常という水面上には見えないでいるのだ。


かく言う私もつい3年前は九州で、まさか関東に住み、次男である夫の母親を

看取るとは・・・。


ーもし、あのときー

夫の母親との同居を決断しなっかったら・・多分今頃後悔していたにちがいない。
 
ちょっとさかのぼって、今の夫と結婚しなくて別の人と結婚していれば、違った

人生。でも今の子どもたちとはめぐり逢えていないのである。


そうおもうと、人は知らずしていくつもの分かれ道を選んで進んでいっているんじゃない

か。道に迷って立ち止まったり、相談したり・・。でも最後には自分で答えを出して

いるんじゃないかと。



余談だが、近日中に友だちと会うようにしている。

お互いの健康を確認しあいながら、友好を温めたいと思っている。
  

//motto-to//

2011年10月14日金曜日

コラムVol.173【悩み、苦しみ、悲しみを抱えながら生きている全ての人へ】

2011年3月11日の大震災後、
台風や大雨などでも
大変な被害がありました。

それ以外にも、
生きることがつらく、
厳しい状況におかれている人、
普通に生活を送れない状態にある人が、
気持ちに余裕を持つ事は、
なかなか出来ません。

そういう状態にある人

あらゆる悲しみや苦しみで
うずくまり立ち上がれずにいる状態

それでも立ち上がり
一歩ずつ
一歩ずつ
前に進んで行く

希望が見出だせなくても
生きていかなければならない

世の中に存在している事実、
生きている事実。

想いを込めて…

~悩み、苦しみ、悲しみを抱えながら生きている全ての人へ~

よく ここまで 生きていてくれたね

ありがとう

生きていてくれて ありがとう

生きているだけでも 苦しい毎日を
何とか生きて
生きて
生きて

今があるよね

今も
これからも

まだまだ どうなるか わからない

不安で どうしたら良いか
何をしたら良いか
わからなくなるね

自分が 生きている意味は 何だろう

何の為に 生きているんだろう

何で こんなに 苦しい思いをしながら
生きなければならないんだろう

それは…

自分が 答えを見つけるまで
続いていく 問いなのだろう

暗い闇の中を 歩いているみたいに
先が見えなくて 不安になるけれど

ひとりじゃない
独りじゃない

孤独を感じて
悲しくなっても

誰かがいるよ

あなたは
決して 独りじゃないよ

あなたを 必要としている人が いるよ

あなたの 命の 灯火(ともしび)が
たとえ 小さくなったとしても
輝いているよ

生きていてください

どうか生きていてください

希望は きっと あるから

希望に
向かって

     †Blue Luna†

2011年10月12日水曜日

コラムVol.172 【友達】

小さい頃に裏の山や野原、田んぼで一緒に鬼ごっこをしたり、ちゃんばらごっこやままごとをした友達。
小学校まで手をつないで通って、帰りに家にきてカードゲームをした友達。
部活動で一緒に汗と涙を流したり、サークルでわいわいがやがややった友達。
会社の仕事が終わって、一緒に呑みに行って、上司のグチを言ったり、自慢を言い合う友達(同僚)。

成長と共に友達も変わっていくと思います。
引っ越しで離ればなれになると、連絡も疎通になってしまう人もいれば、まめに連絡を取り合って、長い間友達
関係を維持している方もいます。

確かに環境が変われば、自分の中での友達への関わり方も、友達を選ぶ基準もすっかりかわってしまう可能性も
あります。環境も一つのきっかけとしては欠かせない要素になります。環境以外にも、必要以上に友達を作ろう
としないで、限られた人と交友関係を持つ性格をもつ人もいます。

私がここで言いたいのは、広い交友関係を持っているからといって良いという訳ではないのです。

本当に心からお互いに尊敬し合うことができて、本気でぶつかる事が出来る友達は沢山いらないと思うし、作る
ことは出来ないと思います。どんなに頑張っても10人も作ることは出来ないでしょう。

そのようなかけがえのない友達を親友、心の友と表現する方もいますが、そのような関係を持つためには、自分
自身を相手に心のうちをさらけ出す必要があると考えています。

でも、心をさらけ出すなんて、怖い。と思う方も意外と沢山います。私もかつてそうだったのだから。

しかし、心をさらけ出すことは逆に言えば、相手も自分にさらけ出してくれる可能性があり、お互いにさらけ出
すことが出来るようになれば、その関係がとても心地よいと感じるようになり、一種の安堵感を得ることが出来
ます。

いろいろな紆余曲折を経て、最終的にお互いに信頼できる親友が出来れば、人生の楽しみがまた一つ増えるかも
しれません。

どうか、友達を作ることをおそれずに、自然体で接してみてください。

あなたが自分で気づかない魅力を誰かが気づけば、いつの間にか友達になっていた、というようなことは良くあ
る話なのです。

あなたの人生を豊かにできるかどうかは、家族はもちろんですが、友達の存在も欠かせないのです。

2011年9月26日月曜日

コラムVol.171 【今を生きる人へ】

これは、あるドラマの中で印象に残ったセリフです。

正直に生きないと、いつまでも自分に問い詰めることになる。
「もし、あのとき」


巷では、人は、後悔だらけの人生を過ごすといわれています。
もちろん、幸せだらけの人生を過ごすこともありますが、
なぜか、記憶に強烈に残るのは
幸せより悔いの方だったりしませんか。


人は、いくつもある選択肢から自分にとって最適な方法をとったつもりでも、
納得いかない結果、自分に嘘をついたままや犠牲などが生じると、
必ず、葛藤が起こります。
それが、
「もし、あのとき・・・」
そう、他の選択をしたときの可能性を確かめたくなることがあるのではないでしょうか。

どんな過程がありましても、自分が自分らしく生きるためには、
きちんと自問自答しながら正直に生きることが最短の距離ではないでしょうか。

ただし、人生に不正解はありません。
たとえ、選んだ道が誤っていたとしても、
その道を選ぶまでの過程を、自分にとっての最良な方法で決定した上、それらを受け入れたからこそ、
その道があるのだと思います。
それぞれの道には必ず、自分の好ましい方向へ導ける見えないレールがあります。
時には、進むべき道または進んだ道の中には、何かを責めたり何かを犠牲にしたり
することもあるかもしれません。

あなたは、
あのときのことを今でも、自分に問い詰めてしまっていることはありませんか。
もちろん、ある方やない方、わからない方など、さまざまな方がいらっしゃると思います。

ですから、「もし、あのとき」をなるべく駆使しないよう、
そうならないよう、今を大事にして、自分が本当に求めていることは何なのか、
飾りではない、正直なありのままの自分でいられるよう、
こころの準備や整理をし始めてみてはいかがでしょうか。
その今でさえも、1秒後には過去になってしまいますから。

//mivi//

2011年9月22日木曜日

コラムVol.170 【古希のお祝い】

なかなか取れていなかった夏季休暇をようやく
先週取得できると思っていたら、業務の都合で
延期となり、やっと取れ始めたのが幸い(?)
にも先週金曜からでした。つまり、連休と重なって
取得することができているので、今も長い休暇中です。
(とはいえ、自宅にいながら仕事はしていますが…)

仕事のことはいいとして、先週末、父の古希のお祝いを
しました。恥ずかしながら古希(こき)ということを知らなかった
私ですが、一言でいうと「70歳を祝う」ということですね。

3兄弟とその家族皆が(滅多に会えない中)ようやく
久しぶりに会えたわけですが、やっぱり家族っていいです
よね。特にコミュニケーションをとらなくても何となく
通じ合っているところがいいです。物事を論理的に伝える
だとか、研修で学んで業務でも活かすよう色々と実行しては
いますが、あのように神経を使って会話する必要が家族とは
一切必要がありません。そんな家族のようなコミュニケーションが
とれるっていいなぁとあらためて感じました。

皆さんはそのようなコミュニケーションがとれていますか?
何か初心に戻ったというか、原点に戻ったような気がちょっとして、
いつも無理していた自分を改めて見直すことができた感じが
しました。

「家族愛」って、いいですよねー。
久しく帰省されていない方も、時間をとってちょっと顔を
だしてみませんか?もしくは、電話で「元気?」の一言だけでも
いいと思います。これは、家族だけでなく、久しく会話していない
友人にも同じことが言えます。メールではなく、電話で会話したり、
ハガキ1枚送ってみてはいかがでしょうか?相手も嬉しいでしょうが
連絡を取って相手と会話した自分自身もスッキリした気分になる
ことでしょう。

/hero

2011年9月12日月曜日

コラムVol.169 【コミュニケーションの根っこには食べ物がある】

小学校が夏休みとなり、私も同時に長期休暇となりました。
日ごろ疎かになっている家事に集中と計画していたのが、
つい気が緩んで、怠け癖はおいそれとは直らないようです。


やれ娘のつわりで、おさんどんに静岡へ、毎日仕事で貢献出来なかった
市通訳派遣の予定を入れたりと、何かと忙しい日々。
8月は半ばより車で九州福岡へ帰る計画を息子と計画し、9月2日に
戻ってくるというハードスケジュール。それが今頃疲れが出始め、
歳を感じています。


前置きが長くなりました。実は表題はその九州の大分で聞いた講演での
内容の一部分です。前回も“食”に関心があると言っていた私。
彼がこのことを言うや、グッと私は共感したのです。


誰が、どのように、どんな場所で、どんなものを食べるか?
差別の根幹には食物も大きな要素になっている。
例えばイスラム教、ヒンドゥー教、大乗仏教、小乗仏教で食する肉が違う。
文明や宗教によって異なり・・・と聴くにつけ、おおいにうなづけました。
 
現代はグローバル化が進み、日本においても世界の様々な食文化が混じっています。
とても恵まれた環境にあるといっても過言ではありません。
そのような状況下で家庭の食事(食卓)はどうなっているでしょうか?
コミュニケーションの最小単位と言える家庭が揺らぐとどうなるか?


最近小学校の昇降口で泣いている低学年の子供。日替わりメニューのように
体操着、上履き、給食エプロンなど忘れてくる子が恥ずかしくて教室へ入れない。
しっかり家でお母さんやお父さんと話が出来ていない、また親も子が学校でどんな
様子なのか気にならない。たぶん親も小さい時に、そういう気遣いをされなかった
のかもしれません。
ご飯を食べるその時が言葉かけ(ふれあい)の大事なひと時であって欲しい。



「母は自分にしっかり愛情を注いでくれた。今までこの歳になるまで大病を
しなかったのは、母が美味しい食事や自然の営みを教えてくれたおかげ」と
姜尚中(カンサンジュン)氏。講演を聴いてますますファンになった私です。

//motto-to//

2011年9月8日木曜日

コラムVol.168  【コミュニケーションの難しさ】 

健聴者の私が最近感じるのはコミュニケーションの難しさです。
それは手話のコミュニケーションではなく、海外と一緒に仕事を
している相手とのコミュニケーション(電話とメール)が大変
厳しく意思疎通がなかなか図れないことです。
自分でいうのも何ですが、海外在住歴通算14年にもなるので
英語でのコミュニケーションや国際感覚は通常の方と比べると
長けていると思っています。しかし、今回のビジネス案件は、
日本、ドイツ、イギリス、中国、そしてアメリカと4カ国を
同時に相手しなくてはなりません。時差だけでなく、考え方の
違いもあり、、、数週間前に1週間かけて電話会議で説明した
はずの内容が完全には理解されておらず、あらためて電話会議で
説明する羽目になったりして、開発スケジュールに遅延が起きそうな
勢いでした。

そこで感じたのは、手話でも電話やメールでも同じだと思いますが、
「伝わったと思う」で終わらせないことです。必ず、合意内容だったり
説明した内容を改めて纏めて、理解してもらえたはずの内容を再度
確認することまで徹底しないと、誤解というものは必ず発生します。
そして、できれば、再確認は、文化の差や時差に左右されないよう
メールなど、文字を使用することです。そうすることで、誤解は
最小限に抑えられます。

振り返って考えてみると、今回の私の場合も、「伝わったと思う」と
ある意味一方的に決め付けていたわけであり、それを再確認するこを
怠っていたとも考えられます。相手方にも落ち度はきっとあるかも
しれませんが、まずは、自分自身を振り返り、意思疎通が明確になる
ようにしていくことが重要だということを改めて認識しました。

是非、皆さんもご参考まで。

/hero

2011年8月12日金曜日

コラムVol.167  【年代ごとの本】 

最近、「○代にしておきたいこと20の話」など、
20代、30代、40代など年代ごとにおすすめする本が
本屋で多くみかけるようになってきたと思いませんか。

年代を題名にすれば、自分に関係する本だという心理的な作戦も
含まれていると思います。年代にすれば、幅広い年齢層をターゲットできるし、
本を手に取る人が多くなるという心理的戦略な面もあると思います。

同年代だからこそ、わかることや今、気をつけたいことなどが
書かれてあり、興味深く読めてしまうものだと思います。


私も、自分の年代にあてはまる本を取らずにはいられません。
そこには、何より、共感できる部分が多く書かれていることがあり、
参考として読めてしまうからです。

20代には20代、30代には30代、40代には40代、50代には50代、
60代には60代なりの生き方があります。


人は、それぞれ役割を持って演じています。

例えば、「20代で既婚者の女性の場合」、
ある時は子どもで、ある時は母親で、ある時は妻で、
ある時は関係団体の会長で、ある時はおばちゃんで、
ある時は患者で、ある時は社長夫人で、ある時は市民で、
ある時は社会人学生・・・
など、一人の人が時と関係性によって、いくつもの役割を
持って演じています。

役割に合った生き方も年代によって異なってきます。
その生き方を社会を通して教えてくれることもあれば、
本を通して教えてくれることもあります。
一参考として、今回は本を通して、自らの生き方を考えてみては
どうだろうかということです。

今、お盆の真っただ中であり、
帰省時の空いた時間に年代ごとの本を読んでみてはいかがでしょうか。
年代ごとの本に限らず、気持ちに寄り添ったエッセイなども読んでみてはいかがでしょうか。
今までにない気づきを得ることが出来るかもしれません。



//mivi//

2011年8月6日土曜日

コラムVol.166  【コミュニケーション能力を身につけていくということ】 

ドラゴンクエストや、ファイナルファンタジーといったロールプレイング
ゲームをはじめ、いろいろなゲームが衰えを見せずに流行っている。

それにはまり、のめり込むようにゲームをする子どもたちも爆発的に増加
してきていることは、レストランや喫茶店に座っている子どもたちを見れ
ば一目瞭然だ。しかも、電車の中でも道路と至るところで、子どもたちは
手にゲーム機を持って、手や頭をせわしなく動かしている。

あるレストランで食事をしていたときの話だが、隣のテーブルに親子が座
っていたが、子どもは店の中に入ってからも、ゲーム機の画面から目を離
さない。

母親は何を食べるか聞いても子どもは画面から目を離さず、「○○ちょう
だい」とだけ言って、ゲームに再び熱中し始めた。

母親はというと、そのまま携帯を取り出して、いろいろやりはじめたでは
ないか。こうした状況がご飯が来るまでの間ずっと続いていた。食べ終わ
った後も会話がまったくない状態が続いていた。

不思議なほどに、親子の会話がまったくと言っていいほどないのだ。しか
もそれが一組だけではない。多いのだ。いったいなぜだろうか。

・子どもにゲームをやらせておけば、自分のやりたいことが出来る。
・ゲームをやっている子どもが楽しそうで、そのままにしときたい。
・子どもを叱ることが怖い、難しい。

といったような理由も考えられるだろうけど、親子ではやっぱり目と目を合
わせるコミュニケーションが必要だ。

それが出来なくなってしまうと、他人と意見をぶつけたり、分かち合ったり
する能力が育たなくなり、社会性を身につける事が難しくなる。

その他にも心配することがいくつか出てくる。バーチャル世界と現実世界と
の区別が付きにくくなる可能性が出るのだ。

そのようなゲームがなかったころの子どもたちはというと、そとに出かけ自
然とふれあったり、身体と身体をぶつけ合ったり、汗や泥まみれになって・
・・といかにも健康的な遊びをやっていたことが多い。

かくいう私も弟や近所の子どもたちと一緒に小川にいってザリガニをとった
り、網をもって蝉やカブトムシをとりにいったり、縄跳びで遊んだり、かく
れんぼや鬼ごっこをやったものだ。

生身の人間同士の遊びなので、当然ケンカもあった。

一緒に遊んでいた子どもか、近くで見ていた大人が仲裁に入る。最後はお互
いに謝る。そして握手をして仲直りする。この経験は社会にでてからもかな
りといって良いほど役に立つものだと信じている。これが真のコミュニケー
ションではないか、とさえ思う。

そういう環境がない、とか、時間が足りないという方もいらっしゃるだろう。
でもどのようなケースであれ、親の都合でしかない。子どもたちは親の都合
の中で生きていくようなものなのだから。

なかなかコミュニケーションが取れない状態であっても、出来る限りのコミ
ュニケーションをとろうと努力する親の背中を子どもはしっかり見て分かっ
ているし、伝わっているはずだ。

「子どもだから、どうせ分からないだろう」という目論見は捨て、一人の人
間として扱うように話をしようとすれば、それに応じてくれるはずだ。

私個人として、これまでに何人もの子どもたちとカウンセリングなどで接
してきたが、大人よりも感受性が良く、洞察力や観察力においては大人より
も優れており、甘く見ては失敗するだろう。

子どもの潜在能力を侮るなかれ。

ash

2011年7月31日日曜日

コラムVol.165 【食べるから生きていける】


先日、小学校での食育に関しての取り組みをテレビで見ました。

実際に、魚屋さんがクラスに来て、魚の説明をします。
そして、目の前で魚をさばいて料理し、お昼に給食で食べます。

すると、魚が苦手な子も「美味しい」と言って食べたりするそうです。

また、実際に畑で野菜を育てたり、田んぼで稲を育てたりして、
成長したら収穫して食べる、という取り組みも行われているようです。

実際に見たり体験したりする事で、
作っている人の苦労を知ったり、
作る過程を学んだり、と
子ども達が得るものは、きっと沢山あるのでしょう。

しかし、物が豊かなこの国で、食べるものがあることの“ありがたみ”は
果たして、どこまで伝わっているのでしょうか。

食べるものを“いただく”事で、生きていける、
そういう命の大切さについて考える事が出来れば、
食べることに関して、もっと違う意識が持てるようになり、
“もったいない”と思ったり、
大事に食べる様になるのではないでしょうか。

ただ、栄養の為に必要だから、と説明したところで、
食べる事や、食べ物の大切さは、
子ども達の心には響かないと思います。

ここに、先生が葛藤しながらも取り組んだ例を紹介します。

1990年、大阪の豊能町立東能勢小学校の6年生のクラスで、
当時新任だった黒田恭史さんが
“学校で豚を育て、大きくなったら食べよう”と提案し、
ブタにPちゃん、と名前をつけて、実際に皆で育て始めます。

“今の授業は、答えのある授業ばかりしている。
筋書きにない授業で、食とは何かを考えさせたい”

しかし、この話が報道されると「残酷だ。」と批判が殺到し、賛否両論を呼びます。

この話は2008年に“ブタがいた教室”として映画化されました。

映画に出演した子ども達も、実際に3ヶ月間、豚を育てました。

最後にPちゃんの処遇を決めるクラスでの話し合いのシーン。

台本は無く、子ども達一人一人が考えた意見を、自由に言うようにしたそうです。

食べる派、食べない派に二分し、議論は白熱します。

子ども達は涙を浮かべながら、必死にブタをどうするか考えます。

映画のワンシーンでも、子ども達が命と真剣に向き合っている、
という臨場感がとても伝わってきます。

“Pちゃんを可愛がって育ててきたのだから、殺すのはかわいそう、
どうしても食べる事は出来ない、”という意見。

“かわいそうだけど、卒業と考えたらどうか。
ブタを出荷している人も可愛がって育てているのに、
私達が食べるために出荷しなきゃならないのは、ツライのでは?”という意見。

黒田先生は結論をどうするか悩みます。

そして…、
先生は、Pちゃんを食肉工場に送る事に決めました。

“食べる為に育てる”という原点に戻って、結論を下したそうです。

その結論を下した後も、それで本当に良かったのか、
先生はとても悩んだそうです。

卒業した生徒と成人式で再会した時に、
「あの授業のおかげで、自分は命の大切さを学ぶ事が出来た。」と生徒から言われたそうです。

果たして、この授業が良かったのか、悪かったのか、
…正解はありません。

この学校は山の中にあり、自然に囲まれた環境で育った子ども達です。

この方法で、都会の学校の子ども達にも
同じように感じさせる事が出来るか、というと、
また違ってくるのかもしれません。

ただ、私達大人も子どもも関係なく、
食べるために殺されている命があること、

命をいただいているのだから、
ありがたいと感じて生きなくてはならないこと、

などなど、もっと感じて食べなくてはいけないなぁ、と考えさせられました。

皆さんは、どのように感じられたでしょうか?

夏になり、暑くなると食欲も無くなりがちですし、
悩み事があると、食べられなかったりしますが、

食べ物があることのありがたさ、
命をいただいていることのありがたさを噛み締めながら、

しっかり食べて、
心にも体にも栄養を。

生きる為の力をつけていきたいです。

心と体は
つながっていますものね。

†Blue Luna†